AI小説第一回

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第一章 腐った朝

「また遅刻か」

椎名凜は自転車のペダルを踏みながら、盛大にため息をついた。

十月の朝の空気は鋭い。吐く息が白くなるくらいには冷えているのに、汗をかいている。昨夜の残業で体がまだ半分眠っているせいだ。リモートワーク推奨の会社なのに、凜の上司だけが「顔を合わせることに意味がある」と信じて疑わない昭和タイプで、週に三日は出社を求めてくる。その結果、凜は毎週三日、こうして朝の寒空の下を自転車で漕ぐことになっていた。

駅前の商店街を抜けようとして、凜は自転車を止めた。

おかしい。

朝七時半の鳥羽川商店街は、いつもなら老夫婦が店のシャッターを開けながら挨拶を交わし、犬の散歩をする人が通り、小学生が走り回っている。それが当たり前の光景だった。魚屋の山田さんがまな板を叩く音が聞こえ、パン屋の煙突から小麦の焼けた甘い匂いが流れてくる。それが鳥羽川商店街の朝だった。

今朝はちがう。

シャッターは閉まっている。人がいない。いや、いないわけではない。道の向こうに、何かが立っている。

ふらふらと揺れながら。

「なんだろ」

凜は首をかしげた。酔っ払いにしては朝が早すぎる。この商店街には酒場が三軒あるが、七時半まで飲んでいる人間を凜は見たことがなかった。

その人影が、こちらに向かってくる。

ゆっくり。ぎこちなく。まるで操り人形の糸が絡まったみたいな歩き方で。関節が正しく動いていない感じがする。腕が少し変な角度に下がっていて、首がわずかに傾いていて、でも歩みを止めない。

近づいてきて、凜は息を飲んだ。

男だった。四十代くらいのサラリーマン。スーツを着ていた。ネクタイも締めている。でも目が、目がおかしかった。白く濁って、焦点が合っていない。瞳孔がどこにあるのかわからないくらいに白目になっていた。口が半開きで、顎から何か黒ずんだ液体が垂れていた。地面に黒い染みを作りながら歩いてくる。

「あの、すみません」

凜は声をかけた。

反応がない。ただこちらに向かって歩いてくる。まるで凜の声が聞こえていないかのように。でも体の向きはこちらに向いている。何かを感知している。

「ちょっと、大丈夫ですか? 具合が悪いなら病院に」

男の手が伸びてきた。

「わっ」

凜は反射的に自転車を横に倒し、飛び退いた。男の指が空を掴む。長い指だった。爪が黒くなっていた。

「なに、なんなの」

距離を取りながら凜は男を観察する。肌の色がおかしい。土色、というよりも灰色に近い。血の気がまったくない。そして匂いが。

なんの匂いだろう。

思い出した。ずっと前に、夏の終わりに山道で死んだ動物を見かけたことがある。その時の匂いに似ていた。腐敗の匂い。でも生きて歩いているものから、その匂いがしてくる。

「やばい」

凜の本能が警告を出した。あれはなんだか分からないが、近づいてはいけない何かだ。

男がまた手を伸ばしてくる。

凜は自転車をひっつかんで逃げた。商店街の反対側に全力で走りながら、頭が疑問符でいっぱいになる。あれはなんだったのか。なぜあんな状態で歩いているのか。病気か。でもあの目は。あの匂いは。病気でああなる人間を、凜は見たことがなかった。

商店街を抜けたところで、角から人が飛び出してきた。

「危ない!」

凜は自転車ごと停まりきれず、相手にぶつかりそうになる。

「うわっと」

相手が器用に凜の自転車を避けた。長身の男。年は二十代半ばくらい。ぼさぼさの黒髪に、くたびれたグレーのパーカーを着ている。肩に大きなバックパックを背負っていた。三日分くらいの旅行荷物が入りそうな大きさだ。

「すみません、よそ見してました」と凜は謝った。

「いや俺もです」男は苦笑して、凜の後ろを見た。「あなたも商店街の方から来た?」

「そうですが」

「変なの、見ましたよね。ふらふらしてる人」

「見ました。複数います」

「複数?」男の表情が引き締まった。

「さっき遭遇したのは一人でしたけど、道の向こうにも何人かいたような気がして」

「俺も三人見た。一人に触れられそうになって逃げてきたところ」

「触れられそうになった?」

「ええ。つかまれそうになって。なんか、雰囲気が怖くて。あいつら、目がやばくないですか」

「やばかったです。すごく。あと匂いが」

「匂いも変でしたね。腐ったような」

「そうそう」

二人は互いを見た。初対面だが、同じ体験をした者同士の連帯感というものが、こういう状況では素早く生まれるようだ。

「名前、聞いていいですか。俺は永瀬誠一」

「椎名凜です」

「凜さんか。とりあえずあそこのコンビニ、入りませんか。状況整理したいし、まずは安全なとこに」

凜は頷いた。状況整理、その言葉はなかなか的を射ていた。今の自分には確かにそれが必要だった。混乱した頭の中を整理するには、まず安全な場所が要る。


コンビニの中は無人だった。電気はついている。レジには誰もいない。棚の商品はそのままになっている。ホットスナックのランプも点滅していた。バックヤードのドアが半開きになっていた。

「店員さんは?」と凜は言った。

「さあ」と誠一は言った。「呼んでも出てこないし。でもまあ、誰もいないなら使わせてもらいましょう。緊急事態っぽいし」

「緊急事態っぽいとかじゃなくて、これ完全に緊急事態では」

「そうですね、訂正します。これは緊急事態です」

誠一はコーヒーメーカーのところに行き、缶コーヒーのコーナーを見た。ホットの棚から二本取り出す。凜を見る。

「あ、ホットのブラックで」と凜は言った。

「気が合いますね」と誠一は言って、ブラック缶を二本持ってきた。

凜は財布を出そうとした。

「後で払いましょう、後で」と誠一は言った。「もし機会があれば」

「機会があれば、って物騒な言い方ですね」

「あの人たちを見た後では、素直にそう思います」

二人は窓際のスペースに腰を下ろした。コンビニの大きな窓から商店街が見える。遠くに、ふらふらと歩く人影が見えた。一人じゃない。三人、四人。それぞれが同じようなぎこちない動きをしている。

「スマホ見てます?」と凜は聞いた。

「さっきから見てますけど、ネットが重くて」誠一は画面を凜に向けた。「SNSを見てください」

凜は画面を覗く。

鳥羽川、ゾンビ、という単語がトレンドに入っていた。投稿が次々と流れてくる。「商店街で変な人に追いかけられた」「近所の人が白目になって歩いてる」「目が濁って匂いがする人に会った」。写真も上がり始めていた。凜が見たのと同じ人たちの写真。

「ゾンビ」と凜は言った。

「ゾンビ」と誠一は繰り返した。

沈黙が一秒あった。

「本物のゾンビが出たってこと?」

「そういうことになりますね、どうやら」

「映画みたい」

「映画みたいですね。でも現実です。助けを呼ぼうとしたんですが、警察の電話が繋がらなくて」

「119は?」

「同じです。回線が混んでるか、向こうも対応できていないか。少なくとも今すぐ誰かが助けにくる状況じゃないと思います」

凜はスマホを取り出した。ニュースアプリを開く。速報が入っていた。

『鳥羽川市内複数地点で異常事態 市民に自宅待機を呼びかけ』

続報もすぐに来た。

『感染者と思われる人物が市内各地で確認 噛み傷を受けた市民も症状が出始める』

「自宅待機」と凜は読んだ。

「俺、自宅が反対方向なんですよね」と誠一は言った。

「私も」

「そっか」

二人はまた窓の外を見た。ゾンビの数が増えていた。商店街の中をゆっくりと歩き回っている。方向性がないようで、でも確かに人の気配を察知している感じがある。コンビニのガラス越しに見えているこちらには、今のところ気づいていないようだった。

「ねえ、永瀬さん」

「誠一でいいですよ」

「じゃあ誠一さん。一個聞いていいですか」

「どうぞ」

「これ、どうしましょう」

誠一は缶コーヒーを一口飲んで、少し考えた。視線を少し遠くにやって、思考を整理しているような顔をした。

「とりあえず、原因が分かれば何かできる気がします」

「原因」

「ゾンビが突然発生するわけがないじゃないですか。何か理由がある。ウイルスか、バクテリアか、あるいは」

「あるいは?」

「何かほかの何か」

「曖昧ですね」

「曖昧ですよ。でも理由がなければゾンビは出ない。その理由を探すのがまず先決かと思って」

凜は腕を組んだ。「バイオハザード的な発想ですね」

「映画好きなんで」

「私もです。ちなみにどのシリーズが好きですか」

「1作目と3作目」

「私は2作目が好きです」

「それはちょっと変わってますね。2作目はアリス最強すぎて現実感ないって評価が多いですよ」

「それがいいんですよ。主人公が最強なのは安心感があって」

「なるほど、そういう見方もあるか」

なんとなく笑いが出た。状況が状況なのに。あるいは状況が状況だから。緊張を少し緩めるために、脳が勝手にそういう方向に向かうのかもしれない。

「で」と誠一は言った。「どこから調べましょうか。何かヒントになりそうなことって、ありますか。ここ最近、この町で変わったことって」

凜は考えた。最近、変わったこと。商店街の古いラーメン屋が閉店した。駅前にコインランドリーができた。でもそういうことではないだろう。

「そういえば」と凜は言った。「神社が変でした」


第二章 鳥羽川神社の噂

「神社?」誠一は眉を上げた。「どんな風に?」

「鳥羽川神社って知ってますか。山の方にある、古い神社」

「聞いたことあります。この地名の由来になった神社ですよね。行ったことはないですけど」

「私は月参りしてたんですよ、ちょっとだけ。去年まで。でも一ヶ月前に参拝したとき、なんか空気が変だなって」

「変って」

「うまく言えないんですけど。神社って普通、凛と澄んだ感じがあるじゃないですか。あそこも以前はそうだったのに、先月行ったら、なんか、重くて。よどんでて。境内に入った瞬間から息苦しい感じがして、社のそばに行ったら頭が痛くなって、気分が悪くなって、すぐ帰ってきたんですよね」

誠一は少し考えた顔をする。眉間に少しシワを寄せて、何かを整理している。「それがゾンビと関係あると?」

「直感です。証拠はないです」

「直感か」誠一はまた缶コーヒーを飲んだ。「信じましょうか、直感」

「軽いですね」

「合理的な説明がない以上、直感に頼るしかないじゃないですか。それに、宗教的・霊的な何かと結びついたゾンビって、映画でも多いですよ。ゾンビという概念自体、もともとブードゥー教の話ですし。死体を操る呪術師の話から来てる」

「あなた、結構物知りですね」

「暇だったんで色々調べてたんですよ、ゾンビ関係は趣味で」

「趣味がゾンビ研究って、なかなかキャラが立ってますね。お友達には言えないタイプの趣味だ」

「そうですか。凜さんは?」

「私はゾンビ映画を見るだけです。現実に活かせるとは思ってなかった」

誠一は立ち上がり、窓の外を確認した。ゾンビたちはまだ商店街をうろついている。コンビニの方に来ている様子はない。外の人通りはゼロだった。普通の朝なら通勤客や買い物客がいるはずの時間帯なのに、人間が見当たらない。みんな逃げるか、ゾンビになるか、どちらかになってしまっている。

「神社、行ってみましょう」と誠一は言った。

「行けますか、ゾンビが外にいる状態で」

「商店街を通らなければ行けるルートはありますか」

凜は頭の中で地図を描いた。鳥羽川神社は山の中腹にある。商店街を抜けて県道を通るのが普通のルートだが、それ以外にも川沿いの道から山に入る古い参道がある。地元民は知っているが、観光客はまず使わない。

「裏道を使えば、たぶん。川沿いの道から山に入れる。商店街を通らなくて済む」

「じゃあそれで行きましょう」

「なんで私まで行くことになってるんですか」

「一人より二人の方が安全でしょう。それに、道を知ってるのは凜さんだけですよ」

凜は窓の外を見た。ゾンビたち。腐敗した匂いを思い出す。白く濁った目を思い出す。正直、二度と近づきたくないと思う。

「なんで私が巻き込まれてるんだろ」とつぶやく。

「巻き込まれたくなければ、ここで待っててもいいですよ」と誠一は言った。「でも自宅待機を呼びかけてる以上、誰かが何かしないと状況は変わらない。俺一人で行ってもいいですけど、道に迷って遭難するかもしれない」

「脅してますか」

「事実を述べてます」

凜はため息をついた。長くて深い、本日二度目のため息。

「分かりました、一緒に行きます」

「頼りにしてます」

「うん、でもね。一個だけ言わせてください」

「なんですか」

「怖いです。めちゃくちゃ怖いです。正直に言うと、足が震えてます。さっき誠一さんに出会う前、自転車を倒して逃げた後、ちょっと泣きそうになりました」

誠一は少し驚いた顔をしてから、素直に頷いた。「俺もです。超怖いです。手、今でもちょっと震えてます」

「え、本当に?」

「本当に」誠一は手を見せた。確かに、わずかに揺れていた。「足が震えるってよく聞くけど、俺は手が先に来るタイプみたいです」

「それ聞いて少し安心しました」

「そうですか」

「怖いのが自分だけじゃないって分かると、なんか楽になりますね」

「分かります」

「じゃあ行きましょうか」と凜は立ち上がった。

「行きましょう」と誠一は言った。


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第三章 川沿いの逃走

コンビニの裏口から出た。

川沿いの道は静かだった。人の気配がない。ゾンビも今のところ見えない。鳥羽川の流れる音だけが聞こえた。普段なら心地よいその音が、今日はどこか不穏に聞こえた。

凜が先頭を歩き、誠一が後ろについた。誠一はバックパックから何かを取り出していた。

「それ何ですか」と凜は振り返らずに聞いた。

「バール。工具ですね。護身用に一応」

「なんでコンビニに来るのにバールを持ってくるんですか」

「朝起きたとき、なんか嫌な予感がして」

「予知能力ありますか?」

「ないです。でも今日は当たってた。俺、なんとなくこう、空気感みたいなものを感じることがあって、今朝はなんか変な感じがしたんですよ。で、念のためにと思って」

「嫌な予感がしたとき用にバールを持ち歩く習慣があるんですか」

「ありません。今日が初めて。でも正解でした」

「初日で正解を出すとは大したものですね」

川沿いの桜並木の葉が落ち始めていた。金色と茶色が混ざった葉が道に散乱している。秋晴れで空は綺麗だった。雲一つない青空。こんな日にゾンビが出るとは誰も思わないだろう。

世界の終わりって、案外こういう日に来るのかもしれない。凜はそんなことを思った。

「ちなみに」と凜は言った。「バールって、ゾンビに効きますか」

「頭を潰せば止まるはず、映画では」

「映画では、ね」

「そこはまあ、信じましょう。映画のゾンビ設定は割と一貫してますから。頭部への直接ダメージが有効というのは、ほぼ全作品で統一されてます」

「学術的ですね、ゾンビの研究が」

「楽観的じゃないですよ。怖いけど、できることをやるしかないというだけで」

川沿いを五分ほど歩いたところで、凜は立ち止まった。

対岸に、三人のゾンビがいた。

川を挟んでいるから直接の危険はない。でも向こうがこちらを認識した瞬間、三つの頭がゆっくりとこちらを向いた。音もなく、予備動作もなく、ただ頭がこちらを向く。その動きがなんとなく不自然で、気味が悪かった。

「見られてます」と誠一は言った。

「見られてますね」と凜は言った。

「川を渡ろうとするかな」

「橋があります。上流に。三十メートルくらい」

「渡ってきたら困るな」

「困りますね。そしてたぶん渡ろうとします」

三人のゾンビが橋の方向に向かって歩き始めた。予想通りだった。

「走りましょうか」と誠一は言った。

「走りましょう」と凜は言った。

二人は走った。川沿いの道を抜けて、山に続く坂道に入る。ゾンビは歩くのが遅い。人間の歩く速さの半分くらいしか動けないように見えた。坂を上れば追いつかれることはないだろう。

それでも背後が気になって、凜は走りながら何度も振り返った。

「前見て走ってください」と誠一が言った。

「怖くて後ろ見てしまうんです」

「後ろは俺が見ます」

「頼れる人ですね」

「そんなことないですよ」

「バール持ってる人に言われたくないですが」

「バール持ってることとどれだけ頼れるかは別問題では」

「今日に限っては同じ問題ですよ」

坂道を上る。息が切れてくる。凜は運動が苦手ではないが、全力疾走は年に数回しかしない。毎日の自転車通勤がなければ、もっと早くバテていただろう。

「ちょっと待って」と凜は言って、立ち止まった。「スマホ、確認させてください」

誠一も止まって後ろを見た。ゾンビたちは橋を渡りきったところだった。でもこちらの方向を見失ったようで、うろうろしている。橋の袂でぐるぐると回っている。

「今のうちに」と誠一は言った。

凜はスマホでSNSを確認した。投稿の量が爆発的に増えていた。市内各地からの報告が次々と上がってくる。スーパーの前、公園、住宅街。各地でゾンビの目撃情報が出ていた。

また速報が入っていた。

『鳥羽川市 異常事態の原因は鳥羽川神社付近との情報 専門家チーム現地入りへ』

「専門家チーム」と凜は読んだ。「来るんですね」

「来るのはいいんですが、いつ来るんでしょう」と誠一は言った。

「時間がかかりそう」

「ゾンビが増え続けてたら、手遅れになりますよ。感染が早ければ」

「じゃあ私たちが先に行くしかない」

「凜さんは度胸ありますね」

「ありません。でも選択肢がないので」

凜は坂道を見上げた。木々の間を縫うように道が続いている。その先に神社がある。

行こう。怖いけど、行こう。

「神社まで、あとどのくらいですか」と誠一は聞いた。

「二十分くらい、かな。急げば」

「急ぎましょう」

「急ぎましょう」


第四章 山道の異変

山道に入ると、空気が変わった。

凜はその変化を肌で感じた。先月、神社で感じたあの重さ、あのよどみ。それと同じ質のものが、山全体に漂っている気がした。それは鼻でも目でもなく、皮膚で感じる何かだった。

「なんか、変ですね」と誠一が言った。

「感じますか」と凜は聞いた。

「霊感とかないんですけど、なんか息苦しい感じがする。空気が重いというか」

「私も。ここ、もともとこんな感じじゃなかったんですよ。去年まで来てたけど、清々しい山道だった。朝来ると特に、木の香りと土の匂いが混ざって、気持ちよくて。それが全然ちがう」

木々が古い山だった。杉と楠が混じり合い、日光を遮って薄暗い。でもその薄暗さが、今朝は不快な薄暗さに感じた。暗いだけでなく、圧迫されるような感じがある。

植物も変だった。

「あれ見てください」と誠一は言って、道脇の草を指さした。

枯れていた。十月だから枯れ始めても不思議ではないが、この枯れ方は違う。まるで突然死したみたいに、茶色く変色して、立ち枯れている。根元から先まで均等に変色していて、普通の秋の枯れ方とはまるで違う。

「虫もいない」と凜は言った。

「気づいてました。草の上に虫が全然いない。山の中なのに、鳥の声もしない」

確かに、静かだった。山の中というのは色々な音がある。鳥の声、虫の声、木の葉ずれの音。それが全部消えている。完全な沈黙。生き物の気配がない。

「これ、ますます怪しいですね」と凜は言った。

「ますます怪しいですね」と誠一は言った。

山道を十分ほど歩いたところで、地面に何かが倒れていた。

「わっ」と凜は声を上げて立ち止まった。

人だった。いや、人だったもの、というべきかもしれない。参拝客だろうか、神社に向かう途中で倒れたのか。男性で、着ている服は普通のハイキングウェアだった。登山靴も履いている。朝早くに来た参拝者か、山歩きの人か。

「死んでますか」と誠一は聞いた。

「分かりません。でも色が」

男性の肌の色が、今朝コンビニ前で見たゾンビと同じ灰色になっていた。首から上が特に変色している。口が半開きで、顎に黒い染みがある。

誠一が近づいて、手首の脈を確認しようとした。

男性の目が開いた。

「誠一さん!」

誠一が飛び退いた。男性がゆっくり起き上がる。頭が先に動いて、それから体がついてくる。目が白く濁っている。口が開いて、何かうめき声を上げる。低くてこもった、人間の声とは少し違う音だった。

「ゾンビだ」と誠一は言った。

「そこは分かってます、どうするんですか」

「頭を」と誠一はバールを構えながら言った。「潰すしかないですかね」

「待って、これ元々は人間ですよね。倫理的に」

「倫理的に? 今その話をしますか」

「だって、もし元に戻れる可能性があるなら、こちらが殺してしまったら」

誠一は一瞬だけ迷った顔をした。「分かりました。じゃあ避けましょう」

男性が立ち上がり、こちらに向かってくる。完全に起きるまでに少し時間がかかっていた。

「逃げましょう」と凜は言った。

「それが最善ですね」と誠一は言った。

二人は走った。男性ゾンビが後を追ってくる。歩くのが遅い。坂道なのでさらに遅くなる。距離は開く一方だった。五十メートルも走れば、振り返っても姿が見えなくなった。

「振り切れました」と凜は走りながら言った。

「よかった」と誠一は走りながら言った。

「でも神社には行かないといけない。あの人も神社から降りてきたと思う。他にもいるかもしれない」

「覚悟を決めましょう」

「覚悟を決めます」

少し走ったところで、前方に石段が見えてきた。

鳥羽川神社の参道だった。古い石段が百二十段、まっすぐ上に向かって続いている。両脇の杉が石段を覆うように立っていて、トンネルのようになっていた。その奥に、石造りの鳥居が見えた。注連縄が張られているが、縄が黒く変色していた。


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第五章 腐敗する神域

石段の前で二人は立ち止まった。

石段を見上げる。かなり急だった。百二十段を全部上ると、足がかなりきつくなるだろう。でもそれよりも、石段全体にかかる雰囲気が気になった。霧でも出ているわけではないのに、少しかすんで見える気がする。

「行きますか」と誠一は言った。

「行きます」と凜は言った。

石段を上り始めると、重さが増した。圧力のようなものが体にかかる感覚。凜は何度かここに来たことがあるが、こんな感覚は一度もなかった。以前は石段を上るほどに気分が清々しくなっていったものだが、今は逆だった。

「凜さん、大丈夫ですか」

「なんか、頭が痛くなってきた」

「俺も。でも引き返す理由にはなりません」

「なりませんね」

五十段ほど上ったところで、一度立ち止まった。鳥居がまだ先にある。

誠一が下を振り返った。「後ろに来てるものはないですね、今のところ」

「あの人は遅かったですから、まだ来ないと思います」

「上りましょう」

石段を上りきると、境内が開けた。

凜は息を飲んだ。

以前来たとき、ここは綺麗に手入れされた神社だった。玉砂利が白く、木々が鮮やかで、小さいながらも威厳があった。常緑の植え込みが綺麗に刈り込まれ、社殿は朱塗りの柱が美しかった。それが今、まったく別の場所になっていた。

玉砂利が黒く変色している。木々が枯れている。社の壁に黒いしみが広がっている。朱塗りの柱の色が失われ、くすんだ黒ずんだ木の色になっていた。空気はよどんでいて、腐敗した臭いが漂っていた。植え込みは枯れ果てて、葉が落ちて茎だけになっていた。

「ひどい」と凜は言った。

「本当に」と誠一は言った。「ひと月でここまで変わるものですかね」

「私が来た一ヶ月前でも、ここまでじゃなかった。あのときは空気が重いくらいだった。でも今は」

「進行しています。急速に」

境内に人がいた。いや、ゾンビがいた。三人。神職の服を着たゾンビが二人と、参拝客だったらしい人が一人。それぞれが別の方向を向きながら、ゆっくりと境内を動いていた。

「神官さんまで」と凜は小声で言った。

「あの人たちも被害者ですよ」と誠一は静かに言った。「神社を守ってたのに」

ゾンビたちはまだこちらに気づいていない。ふらふらと境内を漂っている。方向性がなく、ただうろついているように見えた。

「あの奥の建物、本殿ですよね」と誠一は言った。

凜は見た。拝殿の奥、さらに木々に囲まれた場所に、本殿がある。黒いしみは本殿の方向から広がってきているように見えた。まるで何かが溢れ出している感じがした。

「本殿が源泉かも」と凜は言った。

「同じこと考えてました。どうやって近づきましょう」

「ゾンビを避けて、あっちの木の陰を使えば。鳥居をくぐってすぐ右に曲がって、社殿の外壁沿いに行けば、拝殿には回り込まなくて済む」

「やってみましょう」

二人はゆっくり動いた。境内の端、木の陰を伝うように移動する。足元の玉砂利が音を立てないように、爪先立ちで歩いた。ゾンビたちは相変わらずふらふらしている。音を立てなければ気づかれない。

でも、六割くらいまで近づいたところで、神官のゾンビが頭をこちらに向けた。

「見つかりましたね」と誠一は静かに言った。

「見つかりましたね」と凜は静かに言った。

「何で気づくんですか、目が白濁してるのに」

「音かもしれない。呼吸や足音を感知してる可能性が」

「学術的な分析をしてる場合じゃないですね今」

「走りますか」

「走りましょう」

誠一がバールを構えて走り出した。凜もそれに続く。

一体目のゾンビ、神官の一人が手を伸ばしてくる。誠一がバールで腕を払い、横をすり抜ける。凜もそれに続いて走り抜ける。

二体目が前に出てくる。もう一人の神官だ。誠一がバールで肩を叩く。よろめいた隙に凜が先に走る。

三体目の参拝客ゾンビが凜の腕をつかみかけた。凜は腕を引いてかわし、前に出る。

本殿の手前まで来た。

「大丈夫ですか」と誠一が言った。後ろのゾンビを確認しながら。

「大丈夫です、今のところ」と凜は答えた。少し声が震えた。「あの人たち、追ってきてますか」

「追ってきてますが、遅い。少し時間は作れます」

本殿に目を向けた。扉が少し開いていた。扉の隙間から、黒い霧のようなものが流れ出ている。煙ではない。霧でもない。でも確かに何かが出てきていた。目を凝らすと、ゆらゆらとたゆたいながら外に広がっていくのが見えた。

「あれ」と凜は言った。

「見えます。行きましょう」


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第六章 本殿の深部

本殿の扉を開けた。

中は暗かった。外の光が届かない。でも奥から黒い光、というような形容矛盾な何かが輝いていた。

「黒い光って矛盾してますよね」と凜は入りながら言った。

「見えてるんだから仕方ない」と誠一は後ろ手に扉を閉めながら言った。「自分の目を信じましょう」

神社の本殿の内部は、普通は神聖な空間だ。御神体が祀られ、静謐な空気がある。参拝者は入れない場所で、神職だけが出入りする場所だ。凜もここに入ったのは初めてだった。

床が腐っていた。木材が黒く変色して、ところどころぬかるんでいる。足元が柔らかかった。壁に黒いカビのようなものが繁殖していた。天井から黒い液体がしたたり落ちていた。本来あったであろう装飾品や供え物の痕跡が、すべて黒く変色してしまっていた。

「ひどいものですね」と誠一は言った。

「ひどいです」と凜は言った。「これが一ヶ月で」

「急速すぎる。普通の腐敗とは違いますよ、これは」

奥に進む。頭痛がさらに強くなった。視界がほんの少し歪む。吐き気もした。凜は足元をしっかり確認しながら歩いた。黒い液体を踏まないように。

「御神体の台座が見えます」と誠一は言った。「あそこに何かある」

台座の上に、何かが置かれていた。御神体のはずの場所に。

近づいてみると、石のようなものだった。拳ほどの大きさ。真っ黒で、表面がぬらぬらと光っている。黒い霧はそこから出ていた。石の表面は完全に黒一色ではなく、よく見ると奥の方から何か暗い赤みのような色が透けて見えた。まるで中で何かが燃えているような。

「あれが原因」と凜は言った。

「間違いなさそうです」

「でも、なんですかあれ。御神体じゃないですよね」

「いつかすり替えられたか、何かが変化したか」誠一は近づいて観察した。「触らない方がいいと思います。あの色と、あの霧を見ると」

「触るつもりはないです」

「どう対処しましょう」

凜は考えた。壊す? 持ち出す? でも素手で触るのは危険に思えた。あの霧に触れるだけでも何かが起きそうな気がした。ゾンビを作る何かが、あの石から出ているのだとすれば。

「誠一さん、バックパックの中に何が入ってますか」

「ツールがいろいろ。手袋もあります。それと」誠一はバックパックを開けた。「防護フィルム、密封できる袋、ガムテープ」

「なんでそんなものを」

「もともと建築関係の仕事してて、道具は常に持ち歩く習慣があって。今日も仕事に行こうとしてたんですよ、現場があって。その途中でここに来ることになってしまいました」

「今日は完璧に役立ちますね」

「役立てましょう」

誠一は手袋をした。厚手の作業用手袋だった。ゴムのコーティングがされているタイプで、耐熱性もある。

「袋に入れることはできますか」と凜は言った。

「試みましょう。遠ざけるだけでも効果があるかもしれない。霧を閉じ込めれば、拡散が止まるかも」

誠一が黒い石に手袋をした手を伸ばした。

その瞬間、石が反応した。

黒い霧が濃くなった。石がびりびりと震える。台座から浮き上がるような、そんな不思議な動きをした。誠一の手が数センチのところまで近づくと、まるで強い磁石が反発するように、誠一の手が弾かれた。

「うわっ」と誠一が後退した。

「だめですか」

「触ろうとしたら反発された。磁石みたいに弾かれる感じがして。でも磁石よりもっと強くて、腕に衝撃が来た」

「あれほどの反発力があるものを、どうやって」

凜は改めて石を観察した。表面の模様が、よく見ると文字に見えた。なんの文字だろう。漢字っぽいが、見たことがない字体だ。古い、それも現代の漢字の元になった古い文字に近い気がした。

「呪文か、封印の文字みたいなもの?」と凜は言った。

「可能性あります。何かを封じるための文字が、石に刻まれているとしたら」

「封印が、ほどけた?」

「あるいは、封印を逆に使われた。封じるためのものが、解き放つ方向に転換されたとか。神社に伝わるものが、悪い方向に働くようにされた可能性」

「誰かが意図的にやったってことですか」

「可能性は排除できない」

「なぜそんなことをする人が」

「さあ。でも今はそれより、どうやって止めるかですよ」

凜は周囲を見回した。本殿の壁に、古い看板のようなものがかかっていた。日焼けした木板に、細い文字が書かれていた。煤けているが、読める。

近づいて読む。

『鳥羽川大明神 この神の御威は万物を浄化し、腐を転じて生とす。しかれども逆に用いれば、生を転じて腐とす。常に清き心もて祀るべし。清まらざる心もて御神体に近づく者は深く戒めよ』

「読めます?」と誠一が横に来て読んだ。

「読めます」と凜は言った。

「腐を転じて生、か。逆は生を転じて腐。今はその逆の状態が起きてる」

「清まらざる心で近づいた者がいたってこと? あるいは意図的に逆にした人が」

「どちらでもあり得る。でも大事なのは、この神社の神様の力の性質ですよ。清める力がある。それが今逆転して、腐らせる方向に働いている」

「逆転を元に戻せれば」

「元に戻るかもしれない」

凜はもう一度石を見た。清まらざる心でこうなったなら、清き心で近づけば逆になるのか? それとも、清めるための手段が必要なのか。

「論理的に考えましょう」と凜は言った。「神社の神様は清らかさで機能する。汚れたときに逆転した。なら、清めれば元に戻る」

「水?」と誠一は言った。

「神道では水で清めますよね。手水も、みそぎも、川の水も。清める力が水にある」

「手水がありましたが、水が出てましたよ、さっき通ったとき。ちゃんと水が流れてた」

「じゃあ使えます。石に水をかけてみましょう」

「水をかけてどうなるか、予測がつかないですが」と誠一は言った。

「試すしかないです」

「凜さん、大胆ですね」

「大胆じゃないです。他に手がない」

誠一は本殿の入口に戻り、扉を少し開けた。外の手水舎から水を汲んでこられるか確認する。ゾンビたちは外をうろついているが、手水舎へのルートは取れそうだった。神官ゾンビたちは今、境内の別の場所に移動していた。

「行ってきます」と誠一は言った。

「え、一人で行くんですか」

「凜さんはここで石を見ててください。何か変化があったら教えて」

「危なくないですか」

「多少は。でも俺の方が足が速いので、遭遇しても逃げられます」

「それは確かに」

「すぐ戻ります」

誠一は扉を開けて出て行った。

凜は一人、本殿に残された。


第七章 浄化と崩壊

一人だと怖さが倍になる。

凜は深呼吸をしながら、黒い石を見つめた。石は相変わらずびりびりと空気を震わせている。黒い霧が出続けている。頭痛がじわじわと続いていた。

スマホを見た。電波が微弱だが、なんとかSNSが見られた。外の状況を確認する。

鳥羽川市内のゾンビ被害、すでに二百人以上の感染者が確認されているという情報が流れていた。感染とは言っても、本当に感染するのかは不明だった。でもゾンビに噛まれたり引っかかれたりした人が、次々と同じ状態になっているらしい。ゾンビが人に触れると、その人も変化する。数十分から数時間でゾンビ化するとの情報があった。

「急がないと」と凜はつぶやいた。

外でゾンビのうめき声が聞こえた。誠一は大丈夫だろうか。思わず立ち上がりかけたが、出て行っても邪魔になるだけかもしれない。凜は立ち上がるのをやめた。その代わり、石を観察することにした。

石に刻まれた文字を見る。どう読むのかは分からないが、この文字列には何かのパターンがある気がした。同じ形の文字が繰り返されている部分がある。それが封印の核心なのかもしれない。

扉が開いた。

誠一が戻ってきた。両手に手桶を持っていた。水が揺れている。手桶は神社に参拝者が使う木製のもので、適度な大きさだった。

「大丈夫でしたか」と凜は聞いた。

「ゾンビ一体に腕をつかまれかけましたが、振り払って」

「傷は?」

「ないです。服は少し破けましたが」と誠一はパーカーの袖を見せた。確かに布が引っ張られたのか、端が少し破れていた。

「よかった」

「これで石に水をかけましょう」

「やってみましょう」

二人は石の前に立った。誠一が手桶を持ち、凜が隣に立つ。頭痛がする。吐き気もある。でも今は我慢だ。

「かけます」と誠一は言った。

「かけてください」と凜は言った。

誠一が水をかけた。

反応は劇的だった。

石が激しく震えた。音が出た。低い振動音で、お腹の底に響く音だった。黒い霧が爆発するように広がり、次の瞬間、きゅっと縮んだ。石の表面が白くなり始めた。黒が白に変わっていく。端から始まって、中心に向かって。

「効いてる」と凜は言った。

「もっとかけましょう」

誠一が残りの水を全部かけた。

石が白くなった。霧が消えた。代わりに、白い光のようなものが石から放射された。目を開けていられないほどではないが、確かに光っていた。白い、澄んだ光だった。

本殿の中の空気が変わった。腐敗の臭いが薄れた。壁の黒いしみが薄くなっていく。天井からの黒い液体が止まった。

「すごい」と凜は息を飲んだ。

「すごいですね」と誠一は言った。「本当に効いた」

「神社のことは神道の論理で対処する、っていうのが正解でしたね」

「凜さんの直感がなければ、俺は絶対こっちに来なかった」

「誠一さんのバールがなければ、ゾンビを突破できなかった」

「じゃあ同点ですね」

「同点で」

白くなった石が、ひびが入り始めた。ぱきっ、ぱきっと音を立てて。亀裂が縦に、横に、斜めに走る。

「壊れる?」と凜は言った。

「壊れるみたいです。どうします?」

「止める方法が分からないし、止めなくていいと思います。これは壊れるべきものが壊れてる気がする」

「俺もそう思います。待ちましょう」

石がさらにひびが広がり、いくつかに割れた。そこから白い光が溢れ出す。光は本殿の外に出ていった。扉の隙間から、窓から、外に向かって光が流れていく。

窓から外が見えた。黒く変色していた玉砂利が、白くなっていくのが見えた。端から中央に向かって。

「広がってる」と凜は言った。

「神社全体が清められてるんですかね」

「そうかもしれない。神様の力が元に戻っている」

外からゾンビの声が聞こえた。うめき声が高くなり、それから急に静かになった。二人は顔を見合わせた。

「行って確認しましょうか」と誠一は言った。

「行きましょう」と凜は言った。


第八章 夜明け

本殿の扉を開けると、境内が白い光に満ちていた。

目が慣れると、変化が見えた。玉砂利が白く戻っている。木々が少しずつ色を取り戻している気がした。枯れていた植え込みも、まだ枯れてはいるが、何か変化が始まっているような。

ゾンビたちが倒れていた。三体とも、地面に伏せている。動いていない。

凜は近づいた。神官の一人に、触れそうになって、迷って、でも息があるかどうか確認しようとしゃがんだ。

胸が動いていた。呼吸している。

「生きてます」と凜は言った。

「他の人も?」と誠一が確認した。

三体とも確認した。「みんな生きてます。意識はないですが、息はある」

神職の顔を見た。さっきとは違う。肌の色が戻ってきている。灰色から、人間の色に変わってきていた。まだ完全ではないが、変化の途中にある。目の濁りはまだあるが、薄くなっている気がした。

「元に戻ってます」と誠一は言った。

「戻ってますね」

「ということは、市内のゾンビたちも」

「清化が広がれば、みんな戻るかもしれない」

白い光は神社の境内を超えて、山の外に向かって流れていくように見えた。目に見えるわけではないが、なんとなくそういう感じがした。空気が軽くなっていくのが分かった。さっきまでの重さが、少しずつ消えていく。

凜はスマホを見た。電波が戻っていた。SNSを開くと、速報が入ってきていた。

『鳥羽川市内 感染者の症状が急速に回復。専門家チームが原因調査へ』

「回復が広まってます」と凜は誠一に見せた。

誠一は黙って読んで、それからゆっくりと息を吐いた。

「よかった」とだけ言った。

凜もそう思った。よかった。本当によかった。

境内に朝の光が差し込み始めた。雲が薄くなって、太陽が顔を出した。光の中で、黒く変色していた玉砂利が白く輝いている。

木々の葉も、さっきまでの枯れた色から、少しずつ色を取り戻しているように見えた。完全に元通りではないが、変化は確かに起きていた。

「神社って、修復するんですね」と凜は言った。

「神社というか、神様が」と誠一は言った。

「信じますか、神様」

「今日は信じます」

「今日だけですか」

「明日以降は分かりません」

「正直ですね」

凜は石段の方に歩いた。石段の上から山の下を見下ろす。鳥羽川の町が見えた。いつもの朝の町に戻ってきているように見えた。

もちろん、まだ混乱はあるだろう。ゾンビとして活動していた人たちの記憶はどうなるのか。感染した人の体に後遺症はないのか。原因の黒い石はなんだったのか。誰かが意図的にやったとすれば、その人物は誰で、今どこにいるのか。

分からないことが山積みだ。

「答え合わせはこれからですね」と誠一は隣に立ちながら言った。

「そうですね」と凜は言った。

「でも、ひとまず止まった」

「止まりました」

「ひとまずはそれで十分です」

二人は少しの間、黙って山の下の町を見ていた。秋の光の中で、鳥羽川が光って見えた。川は今日も変わらず流れていた。ゾンビが出ようと、神社が腐敗しようと、川は淡々と流れ続けていた。なんとなくそれが、凜には心強かった。


エピローグ 後日

一週間後、凜は再び鳥羽川神社を訪れた。

今度は一人ではなかった。誠一が隣にいた。

あの日から何度か連絡を取り合い、今日は改めて神社に参拝しようということになっていた。待ち合わせは神社の入口。誠一は約束の時間に五分前に来ていた。

「早いですね」と凜は言った。

「こういう時間は守るタイプで」と誠一は答えた。

「そういう人が好きです」

「好かれました」

「調子いいですね」

神社は回復していた。玉砂利が白く戻っていた。木々が元の色を取り戻していた。社殿の黒いしみも消えていた。あの腐敗した臭いはなく、澄んだ秋の空気が境内に満ちていた。注連縄も新しいものに取り替えられていた。

「きれいになってる」と凜は言った。

「別の場所みたいですね」と誠一は言った。「あのとき見た光景が夢みたいだ」

「夢じゃなかったですけどね」

「夢じゃなかったですね」

市内のゾンビになった人々は全員回復していた。記憶はぼんやりしているものが多く、「気づいたら病院にいた」という証言が多かった。感染者と呼ばれた人々の体に後遺症はないと、専門家が発表していた。ゾンビ化してからの数時間の記憶が抜け落ちているケースが多いが、それ以外は健康だということだった。

神社の神職さんたちも回復し、神社の修復作業を行っていた。あの黒い石は、回収されて研究機関に送られた。正確な正体は調査中だが、何らかの「異常なエネルギー体」だったと暫定的に発表されていた。神社に以前から伝わる記録によると、数百年前にも一度、同様の事態が起きたことがあるらしい。その時は神職が命がけで清めを行い、封じたと残っていた。

今回は封印が解けた経緯は不明のままだった。意図的なものかどうかも確認されていなかった。

でも、事態は収束した。

手水で手を清めてから、二人は拝殿の前に立った。手水の水が、今日は清かった。冷たくて、気持ちよかった。

「何をお参りしましょうか」と誠一は聞いた。

「お礼でいいんじゃないですか」と凜は言った。「あの水が効いたのも、神様のおかげかもしれないので」

「なるほど、確かに。御神徳に感謝を、ってやつですね」

「それと」と凜は付け加えた。「また変なことが起きたとき、なんとかなりますように、って」

「それは祈るより自分でやった方が早くないですか」

「自分でやるための運、みたいなものを祈るんですよ。守ってもらうわけじゃなくて、まあ挨拶みたいなもの」

「うまいことを言いますね」

「でしょ」

二人は手を合わせた。

秋の光の中で、神社の森が静かに揺れていた。葉が舞い落ちる。白い玉砂利の上に、金色の葉が一枚落ちた。綺麗だった。

参拝を終えて石段を降りながら、誠一が言った。

「あの日、コンビニで缶コーヒーを払ってませんでした」

「言われてみれば」と凜は言った。

「払いに行きましょうか、今日」

「行きましょう。ついでにホットの缶コーヒー、もう一回飲みましょうよ」

「ブラックで」

「ブラックで」

「覚えてくれてたんですね」

「そりゃ覚えてますよ、一緒に飲んだんだから」

二人は石段を下りた。

山の下に広がる鳥羽川の町は、何事もなかったかのように、普通の秋の午前中をやっていた。商店街のシャッターが開いて、魚屋の山田さんがまな板を叩いていた。パン屋の煙突から小麦の甘い匂いが流れてきた。

これでいい。

こういうのが、一番いい。

凜はそう思いながら、誠一の隣を歩いた。

                              (了)


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